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後藤家のお雛様は、私の大伯母(康子)の誕生を祝い、大伯母の父親と祖父が大正3年(1914年)に京都の「 大木平蔵人形店」から購入したものです。1949年、父の妹の節句に飾って以来、お人形は蔵の中に眠っており ました。 15年前、古い人形は地域の財産でもあり、町の活性化のためにもなる、と市の依頼を受け展示を決め現在に至ります。
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古くから材木商を営み「ヤマキチ<山吉>」というのはその頃からの屋号です。 昭和28年に夜明ダムが建設され、筑後川のいかだ流しができなくなるころまで、山から切り出された木材(主に日田杉)は川を利用して運ばれました。 往事を振り返り、父は、 「小さいころは一日中、流れてくる木材を見ていた。製材は景気がよく、下流に流された木材を沢山の従業員で集め製材にし、そこから筑後川を下り2泊3日 で大川(柳川の隣)に渡し全国に日田杉がいった。」
と、言いました。きっとヤマキチが一番華やいだ時代だったんだろうと、川の流れを眺めながら ものの流れをおもいました。外材の圧力や、木材の不況、消費者の天然素材離れ(今でこそまた見直されてますが)、本質知らずの見かけ良さに走った時代背景。 ヤマキチ製材所は昭和55年、百余年の幕を閉じました。
明治20年(1887年)築の自宅は、500年前のけやきの大黒柱、天井板には松、土間の上がりかまち には桜の木を使っています。 この自宅は10年かかって建築され、「くさび」と言って釘を一本も使わずに建てられてます。建築を始める5年前から濃い茶色になるまで、使用する木の一本一本をすすとべんがらで磨いているので(「すす磨き」といいます)、これが防虫と防腐の役目を果たし、114年たった今でもびくともしない建物です。 2階にあがる階段は槙を使用。当時の泥棒除けで下がはずれ上に押し上げると正確に2階の床になるしくみになっています。
展示している御殿雛は、
京都四条堺町北東角の御雛人形細工司2代目大木平蔵(屋号は丸平) の明治末期の作品です。大木平蔵は当時京で一番の人形師とされ、ニセモノが多数 横行したと言われるほどの全国的な人気でした。 現存する作品の中でもこの 様に一式揃っている雛は珍しいと言われております。 3年前に7代目の大木平蔵氏にお会いしました。「確かにこれは2代目の作品です。」目を細め7代目はおっしゃいました。雅やかな当時は、今の時代ほのかに光り輝くものであり、その営みを今も続けてらっしゃる7代目に京の人の心根の芯を見ました。 ---------大木平蔵は谷崎潤一郎の「細雪」にもでてまいります。
白木造りの御殿の中にはお内裏様とお雛様がおられ、右大臣、左大臣、爺婆、三人官女、五人囃子、神楽(大和神楽六人揃)、使長(御殿の掃除人)、お雛様の嫁入り道具(高蒔絵の本漆、桐の箪笥、スズの徳利等)があります。 毛氈(もうせん)も全て当時のものを使ってます。蔵に保管されていたので、保存状態が 大変よく、とても綺麗な御殿雛です。その下には親戚からお祝いの品として頂いたお人形を 多数おいています。特に、乳母車を押した乳母、頭に本べっこうのかんざしをした阿古屋琴じめが 珍しいそうです。 御雛様の冠には玉(ぎょく)が使われており、使長という御殿掃除人の 3人はめでたいと掃除もそっちのけで座っています。 表情は一人は笑い、一人は泣き、一人は 怒っているというおもしろいお人形です。
「古雛や 八十路の我と 再会す」
この俳句は、5年前、お雛様の持ち主である康子大伯母様が、結婚以来見ることのなかった実家のお雛様と60数年ぶりに再会した時に詠んだものです。 今でも私は、とても胸があつくなったのを 覚えています。お互い歳をとりましたね、という想いや、(私が歳をとったので)お雛様がびっくり してるでしょう、という想い、お爺さまお婆さま、お父様、お母様の笑ったお顔、こぼれんばかりの笑みを 浮かべお雛様を飾った当時を思い出したのでは、と思いました。
川を流れた日田杉の繁栄を刻む古い蔵は、日田の歴史の流れとともに「和くら」として第二の人生を 歩み、大正のお雛様は今こうしてたくさんの人々の目に映るものとなり、ひっそり自分なりに後藤の 歴史を見つめる私が今ここにいます。 当時の親の娘に対する思いや温もりが感じられ、心和ませて くれるお雛様。 江戸時代に商人のまちとして栄えた日田市、華やかな天領文化をしのばせるお雛様をどうぞご覧くださいませ。
後藤 嘉寿美
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